サマルカンド

有名なシルクロードの青の都サマルカンド

おとぎ話に出てくるような都市サマルカンドは、豊かな歴史や文化色々なモニュメントを通じて、 全世界に認知される野外博物館の都市となりました。 数世紀にわたり、ウズベキスタンの都市はシルクロードに位置したため、文化、伝統、生活、貿易の成長などの調和に重要な役割を果たしてきました。 多くの有名な古代都市の中で、伝説的なサマルカンドだけが「シルクロードの心臓」と称されました。

古代から、サマルカンドは「イスラム建築の宝石」「世界の鏡」「東洋の真珠」「地上の栄光」「東のローマ」と称されていました。 その都市はローマやアテネ、バビロンと同じくらい古代であり、3000年以上の歴史を持っています。 その設立以来、その都市は中央アジアの政治、経済、文化の生活における重要な位置を占めてきました。 その都市がシルクロードの交差点に位置したため、絹織物、有名なサマルカンドの紙、陶磁器、鍛冶、パン作り、菓子作り、刺繍など、職人芸が発展されました。 サマルカンドで古代から発展してきた手工芸の種類は、各地区が主に一つの職種に特化していたため、地区の名前にその痕跡が残っています。例えば、「Sozangaron」(針作り職人)や「Kamongaron」(矢作り職人)といった地区名など、古い地区の名前は現代まで残っています。

サマルカンドで形成されたザラフシャン川の谷の豊かな自然は、アヴェストの聖詩で賞賛されています。 ゾロアスター教は、イスラム以前の最古の宗教の一つでした。 それに加えて、アヴェストはゾロアスター教の聖典でした。 紀元前1千年紀中頃に、ギリシャの文献においてサマルカンド市は「マロカンド」として言及されていました。その後、中世において、古代サマルカンドの遺跡はアフラシャブとして知られるようになりました。 サマルカンドに関する最初の文献は紀元前329年に遡ります。この時、アレクサンダー大王が率いるギリシャ・マケドニアの軍によって占領されました。 紀元後の初めの数世紀に、都市は強大なカンギュイ国の支配下に入りました。

6世紀から7世紀にかけて、サマルカンドはトルコのハン国の一部となりました。 7世紀の終わりから8世紀の始めにかけて、アラビア人が入ってきました。イスラム教が導入されました。この地域の全人口がイスラム教徒になりました。

13世紀初頭に、チンギス・ハンが率いるモンゴル軍によってサマルカンドの領土は完全に占領され、都市はほぼ完全に破壊されました。数千人の若者から老人までが命を失いました。

14世紀中頃から15世紀にかけて、サマルカンドと中央アジアは経済、政治、社会、文化生活において重要な変化が起こりました。 アミール・ティムールは、偉大な司令官および王様であり、ムワッラナフル中央集権国家*(現在27カ国を含む広大な帝国)の創設者です。この国境は、現在の中国東部の国境からトルコのイスタンブール、インド北部からロシアのボルガ地方まで広がっています。 ティムールの時代(14世紀から15世紀)に、サマルカンドはこの帝国の首都として選ばれました。 この時代はサマルカンドが最も繁栄され、人気のある時代でした。 その時期には、大規模な都市計画と美化作業が行われました。 偉大な統治者は、当時最も熟練した職人達をサマルカンドに集め、職人達の建築作品は何世紀にもわたって受け継がれています。 現在、サマルカンドのモニュメントは美しくて巨大です。 この都市では、古代の遺跡、神学校、霊廟、およびミナレットに保存された古代の歴史の息吹を感じることができます。

アミール・ティムールは、首都サマルカンドを美しい都市にすることを夢見ていました。 インド、アフガニスタン、イラン、シリア、トランスカフカス諸国、およびトルコへの各軍事遠征から、ティムールは最も熟練した建築家、宝石細工師、学者をサマルカンドに連れてきました。 ティムールは自らの国内で偉いな創造者でした。 彼は芸術家や詩人、科学者、学者を支援する寛大な後援者でした。 彼の性格は、孫であるミルゾ・ウルグベクにも見られます。彼は500年前に星のカタログと天文表を作成し、今日まで彼の発見が使われ続け、全世界を驚かせています。 特に、15世紀にウルグベクによって建設されたサマルカンドの天文台は、もう廃墟となりましたが、現在まで半分が残っています(この天文台でミルゾ・ウルグベクは、1,017の星の動きを年や季節に分けていくつかのカテゴリーに形成するための研究を行いました)。これは多くの人々にとって非常に興味深いものです。
ティムールおよびティムール朝の統治期間中に、サマルカンドはその最高峰に達したことを強調することは重要です。

当時のヨーロッパ諸国の統治者たちは、外交関係を確立する目的で多くの大使をサマルカンドに送りました。これには、イギリス、フランス、スペインの王国の大使も含まれていました。 これらの書簡や通信は、世界各地の様々な博物館に保存されています。 歴史から知られているとおり、世界の他の地域の王や統治者たちは、サマルカンドの独特な美しさを見る夢がありました。

その後の時代には、独立した都市が中央アジアの王国やハン国に占領されました。 19世紀以降、サマルカンドはソビエト連邦の一部として、ウズベキスタンの独立まで、ツァーリ時代のロシアによって征服され、統治されていました。

現在、有名なレギスタン広場(15世紀から17世紀)とその壮大な古代の神学校は、中央アジアのユニークな建築記念物です。 かつてのシルクロード時代に、この地域はサマルカンドの商業と社会の中心でした。 アミール・ティムールおよびティムール朝の霊廟は、古代サマルカンドの美しさの別の象徴です。 古代サマルカンドの建築は、その豪華さと壮大さ、眩しいタイル装飾、美しい青いドームやミナレットで、常に誰もを魅了してきています。 これには、レギスタン広場、アミール・ティムール霊廟、ビビ・ハニムモスク、シャヒ・ズィンダ霊廟複合施設、ウルグベク天文台など、多くの他の記念碑が例として挙げられます。 現在、サマルカンドの人口は約60万人であり、ウズベキスタンにおいてタシュケントに次ぐ、2番目に大きな工業都市です。 最も重要なのはウズベキスタンだけでなく、世界中の観光の中心地の一つです。

自然がサマルカンドに心地よい気候と新鮮な天然水をもたらしており、それはウズベキスタンの楽園に位置しています。 サマルカンドの気候は大陸性気候です。 その便利な地理的位置と素晴らしい気候は、常に多くの人々を魅了してきました。 サマルカンドの建築的および歴史的な象徴的なモニュメントは、2001年にフィンランドで開催されたユネスコの第25回セッションで、世界遺産リストに登録されました。

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